改ざん

「改ざん」という言葉の響きは、とても嫌なものです。

 

上司の行政文書「改ざん」命令に対して、必死に抵抗を試みるながらも、意にそぐわず実行に移してしまい、自殺した職員の妻が民事裁判を提起しました。

 

裁判で焦点になるのは、いつも「真実が知りたい」だと思います。真実に対して、虚偽、隠蔽、圧力のなんと多い世の中なのかと嘆いてしまいます。

 

パワハラがうんぬんではなく、サラリーマンにとっては上司の命令は絶対であり、「なんか違うよな?」と思っても従わざるをえないのが現実です。

公益通報制度など、命令に対して異議を唱える人を保護・救済する制度があっても、所詮、形だけのものがほとんどなのです。

最悪なのは、世間に公表されたくないためなのか、公益通報側の弁護士が上司と弦んでいることさえ多々あるのです。

 

ちっぽけな地方自治体の職員だった時、とあることから、以前に公表した「計画」に誤りがあることを認識し、上司に報告したことがあります。

「計画」は本来4つ要素で金額を算定するべきところ、何か事情があったのか2つの要素しか加味されていませんでした。ある意味、この計画は2つの要素だけで算定していると明記しているのであれば虚偽ではないのですが。

「長に次ぐ地位の職がこうしろって言ってるから直して」という上司の言葉です。「それはできません」と跳ね返すことも度々なのです。

 

その時、「あぁ、この人たちは、住民のため街のためと、きれいな言葉でいうけど、そんなことは思っていないんだなぁ。。。」とはっきりとわかりました。

つまり、”長”に怒られないようにと常時ビクビクしていて、いわゆるコメつきバッタ状態の心理に陥ってしまっているのです。

もちろん、自分自身も我が身がかわいいし、死んでも正義を貫くという根性もないのですが、事実でないことを事実とすることはしませんでした。

幸いに精神疾患には至りませんでしたが、自分の言動は正しいのか、隠蔽と大げさに考えないで手を加えてもいいのかな、と思い悩む時もありました。

 

結果、この報告を受けた上司は、”長”に誤りの事実を伝えました。

 

個人的には、「計画」なのですから、誤りがあれば「誤りと公表し訂正かつ作成し直す」もしくは、「誤りを認め、次計画で誤りのないように作成する」ことでよいのではないでしょうか。

 

なぜできないのでしょう。

「〇〇〇億円の違いを公表するのは、計画を承認してくれた与党に説明がつかない」「解釈の仕方で誤りを誤りでないと捉えたらどうか」と、上司、長に次ぐ地位の職は、連日、右往左往する状況に巻き込まれたのです。

 

いつの間にか「解釈の仕方で誤りを誤りでないと捉えたらどうか」という線が大勢を占めた中、「事実は事実なので誤りは公表すべき」という個人の主張は退けられていきます。

せめてもの抵抗として、内部資料(世間に公表されない)の数値・表の見せ方に「改ざん」とならないような工夫を加えることはしました。

 

時折、耳を疑うのが、「長に次ぐ地位の職がこうしろって言うし、でないと”長”に間違いとは言えないと説明できるように直して」などという言葉でした。正直、ばからしいたらありゃしません。

最終的に、”長”も誤りを理解し与党や住民に公表はしたのですが、あくまでも「間違っていたけど、計画を作り直すほど大きな間違いではない」という程度の内容でした。

うやむやの極致のような説明で、聞いてる方や見てる方は、なんだかよくわからないけど間違っていたようだ。。。で終焉を迎えてしまいました。

 

 

 

ちなみに、自殺した職員の方の手記に「トカゲのしっぽ」という表現がありましたが、おそらく、パワハラと言われる上司も所詮「トカゲのしっぽ」ではなかったのではないでしょうか。

表に出ていない強大な圧力が存在していたような気がしてなりません。

 

私の場合は、「トカゲのしっぽ」にもならないような話かもしれませんが、いずれにせよ、人の命をなくしてまでするようなことではありません。

聖人君子ではないのですから、思い悩むことは多々あると思いますが「誤りは誤り」「真実は真実」と言える心持だけは忘れたくないものです。